桜の写真は、実のところ苦手だ。
この話をすると、大抵は「意外ですね、きっとたくさん撮ってこられたはずなのに」──そんなふうに言われる。だが実際には、ずっと昔から、うまく撮れた覚えがない。
まず、タイミングが合わない。
満開の日に限って、空はどんよりと曇っていたり、無情な雨が降ったりする。
ようやく快晴に恵まれた頃には、もう花は散り始めている。桜は、いつもこちらの都合などおかまいなしに、美しさのピークを過ぎてしまう。
名所と呼ばれる場所に行っても、人の多さに気が滅入る。平日でさえ三脚が並び、場所取りが始まっている。誰もがベストショットを狙っていて、私もかつてはその一人だった。
それでも、なぜか桜の写真には満足できなかった。
寄りでも引きでも、どうもピンと来ない。
薄紅色の花びらや細い枝が織りなす繊細な美しさは肉眼でこそ際立つのに、レンズ越しではその儚さがどこか消えてしまう。
今では、カメラを持って出かけることも、めったにない。
重い機材を担いで人混みの中に入っていく気力も体力も、もうあまり残ってはいない。
ただ、一度だけ──
そんな私の苦手意識を覆すような桜の光景に出会ったことがある。
桜の樹々のあいだを、強い風が吹き抜けた瞬間だった。花びらが一斉に舞い上がり、空気のかたちがはっきりと見えた。あまりに美しく、そして怖かった。
そのとき、不意に梶井基次郎のあの一節が頭をよぎった。
この樹の下には何が眠っているのだろう?
ただの花吹雪ではなく何か別の記憶を呼び起こすような、得体の知れない光景。
足元を見た。
そこには何もないはずなのに、見てはいけないものがいたような気がした。
もし、あの一枚が撮れていたなら──それは特別な写真になっただろうか。
以来、何度も桜の季節は巡ってきた。
けれど、あの瞬間を超えるものには出会えていない。
今もなお、その記憶をなぞるように、桜の姿を目で追っている。
あの光景を、いつかもう一度、写し取れる日が来るのだろうか。
たぶん、それはもう叶わないかもしれない。
それでも心のどこかで、まだその瞬間を待っている自分がいる。
歩いた土地の匂いと、そこで交わした言葉。今も、色あせず胸にあります。