黒いハリアー(350G・AWD)の想い出

黒いハリアー(350G4WD)を手に入れたのは、取材で全国を飛び回っていた頃。青森から鹿児島まで、文字どおり日本列島を縦断し続けていた。このハリアーは旧モデルの最終版で、トヨタとしてはこの車種を打ち切るつもりでいたらしい(実際、ハリアーの後継車種としてヴァンガードがリリースされた)。北米では「RX350」として売れたモデルを、トヨタは漸く国内でも解禁した。その一台が、私の相棒になった。

それまでにビッグホーン・ディーゼル3100cc、ウィザード・V63000ccと乗り継いできた。荷物を載せ、雪道を走り、現場までたどり着くための頼れる存在ではあったが、その走りは概ね想像どおりのものだった。しかし、ハリアーは違った。妻と二人で初めて高速道路を走ったときだ。フロントウィンドウから流れ込む景色の迫力に、思わず顔を見合わせたのを覚えている。それまでの車では感じたことのない立体感。エンジンは2000回転ほどで120キロ巡航を軽々とこなし、そこからの加速も申し分なかった。長距離を走っても疲れを感じさせない。かつて乗り継いできた四駆とは明らかに違うフィーリングに、感心するばかりだった。

さらに、四輪駆動の頼もしさもそれまでの車にひけをとらなかった。とりわけ、雪の高速道路では一度も不安を抱かせることなく、安定した足取りで進んでくれた。視界が吹雪で真っ白になっていても、時速80キロ程度であれば不安な挙動を見せることはなかった。思わず胸の奥で「助かった」と小さく呟いたことも幾度かあった気がする。この信頼感は何よりも大きかった。

では、青森から鹿児島まで、なぜ長距離を車で移動していたのか(流石に北海道と沖縄は飛行機で移動した)?理由は単純だ。通常の撮影取材に加えて「現地での料理撮影」が必須だったから(この時の事情については、また後日)。ストロボやディフューザー、大型三脚、そしてレンズ類。カメラのボディも2台は要る。時には撮影用の小物や資料も積み込む。農村の取材では、生産者からいただいた野菜や果物が後部座席を占拠することもあった。飛行機や新幹線では到底運べない量の荷物。ハリアーのラゲッジスペースは生命線だった。

この黒いハリアーと過ごした時間を振り返ると、次々に様々な光景が蘇ってくる。北陸の山中で、道のカーブに沿って追随するヘッドライトの光。山陽道のサービスエリアで次の現場の段取りを頭の中で組み立てた静かな時間。天候が急変した阿蘇山麓で、車内に響く雨音を聞きながら、焦りを覚えた朝。すべてが、車とともに過ごした仕事の記憶。

印象に残っているのは、鹿児島・志布志湾で夜明けの漁を撮り終えた時だ。疲れ切った身体を運転席に沈めたとき、窓の外から潮の匂いが入り込み、車内には缶コーヒーの香りがほのかに漂っていた。取材で得た充実感と、車に身を預けた安心感が入り混じるあの感覚は、今も鮮明に残っている。
車内の調度もまた、忘れがたいものがあった。シートに身体を沈め、木目調のハンドルを握ると、不思議と気持ちが落ち着いた。高速道路の単調な時間も、ハリアーの座席に包まれていると、どこか特別な旅の延長に感じられた。助手席に座る妻が、何気なく流れる音楽に合わせて口ずさむ。そんな些細な場面が、実家への長距離移動を和らげてくれた。

こうした日々を支えてくれた黒いハリアーとも、いつかは別れがやってくる。新しい仕事の形を模索するようになり、かつてのように全国を走り回ることがなくなった。走行距離が18万キロを越えたハリアーを遂に手放す時が来た。

それでも、ハリアーとともに過ごした時間は消えない。青森の雪原も、鹿児島の海辺も、その道のりを繋いだのは黒いハリアーだった。単なる車ではなく、人生のある時期を共に走った伴走者。そう呼ぶのが、いちばんしっくりくる。あの時期にハリアーがあってくれたからこそ、数え切れないほどの人や風景に出会うことができた。


今でも夜の高速を照らしたあのヘッドライトの光は、心の奥に灯り続けている。

Picture of Zep

Zep

歩いた土地の匂いと、そこで交わした言葉。今も、色あせず胸にあります。